戻る


リゲティ


 人前で話すことの苦手が私(砂男)が、「リゲティの話をしてくれ」と

頼まれたのは、第33回うたおに音楽会の数日前。

 「リゲティなら」とあきらめ、最初で最後と腹をくくって、

音楽会ではトークをさせていただきました。


 「難解」とされて嫌われやすい現代音楽。

 しかも、その筆頭とも言うべき、リゲティの音楽。

 でも、私(砂男)は、そんなリゲティが大好き!

 思い起こせば、第33回うたおに音楽会で演奏することとなった

「夜」と「朝」を初めて聴いたのは20年前。

 母校の音楽室で聴いたエリック・エリクソンのLPでした。
 

 合唱でこんなことができるのか!と衝撃を受け、以来、20年間。

 うたおににで20年間「やろうやろう」と言い続けていましたが、

うたおにでは、右から左へと受け流されるばかり。

 それが、ついに20年目にして演奏できることとなったのですから、

苦手なトークもしなくては・・・


 でも、・・・言いたいことの半分も話せなかったな・・

 悔しいので、言いたかったことを改めて記しておきます。

 駄文に、おつきあい頂ける方には感謝申し上げます。


リゲティと「夜」、「朝」


 2006年6月に亡くなったばかりの、ジェルジ・シャーンドル・リゲティ

Gyorgy Sandor Ligeti, 1923年5月28日 トゥルナヴェニ

- 2006年6月12日 ウィーン)は、ルーマニア出身の

ハンガリー人作曲家です。

 出生地のトゥルナヴェニはリゲティの生まれる数年前まで

ハンガリー領でしたが、第一次世界大戦により、

ルーマニア領となったトランシルヴァニア地方にあります。

 また、リゲティはユダヤ系の家系でした。

 つまり、ルーマニア国籍を持って、ハンガリー語(マジャール語)を

母国語とするユダヤ系という、決して恵まれたとはいえない環境が

がリゲティの生まれもっての運命でした。

 父親と弟を強制収容所で亡くし、母親だけが辛うじて

アウシュビッツから生還しています。

 彼自身も56年のハンガリー動乱を期に亡命しています。

 彼の音楽はヒトラーのナチスとスターリンのソヴィエト体制の

2つに苦しめられ、西側の音楽から徹底的に隔離される抑圧の中から

生まれた作品なのです。

 「夜」「朝」が作曲されたのは、リゲティがまだハンガリーに

在住していたころで、彼の作品では初期のものです。

 当時のハンガリーは、当時共産圏統治下で最も強くクラシック音楽への

弾圧が行われ、場合によっては声楽家がバッハのカンタータすら

法律違反で歌えないという有様でした。

 当時のリゲティは、バルトークの影響を受けながらも、

民謡の編曲や民謡を取り入れた作品を発表する中で

革新的な作風を模索していましたが、やはり当局の厳しい統制を受け、

例えば同時期に作曲され「うたおに」でも演奏した「パーパイ夫人」は

演奏を禁止されています。

 「夜」「朝」は、まさにそんな厳しい環境下で作曲されたのでした。

 そのせいか「夜」では恐ろしい緊張感が表現され、

「朝」では反対に喜びが爆発します。

 「朝」の冒頭には、自由の鐘の音(Bahn)が鳴り響き、

中間部では自由をささやき合う群衆の様が早口で表わされます。

 そして、自由を告げる鶏の鳴き声(キキリキー)によって、

最後は急激なクレッシェンドを迎えます。