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1 行事名 | 第29回全日本合唱コンクール中部大会 |
2 年月日 | 1976年11月3日(水) |
3 場所 | 名古屋市公会堂 |
4 課題曲 | 混声 G2 Virga Jesse Anton Bruckner曲 |
5 自由曲 | LISZT FERENCHEZ(フランツ・リストに捧ぐ) 門 えりお訳詩/コダーイ作曲 |
6 審査結果 | 優良賞 |
「悪魔の名古屋決戦」の巻 |
1976年11月3日(水) 数日後に控えた、第3回音楽会「自画自賛」で男声が着用するニュー・コスチュームは、白のダブルジャケットに茶色のマンシング・タートルネックであった。コーディネーターはケンタロー氏。 初のコンクールだから、中部大会はそのコスチュームで、スキッと決めてやろうと意気込んでみたものの、肝心のジャケットが間に合わず、結局、服装は自由。ただし、男声は茶のタートルネックを必ず着用することとの、お達しあり。こういういきさつがあって、それから8年間、コンクールではコスチュームを着なかったのです。 着替えもいらず、会場が名古屋市公開堂ですから、電車を乗り継げば2時間ほどで着けるのですが、迷子を恐れてか、三交バスをチャーター。朝9時に津駅東口に集合です。夜型人間の多い「うたおに」ですから、行きのバスでは、みなムッツリとしていました。ここでも、みな静かでした。ただマネージャー夫妻が遅刻するというアクシデントがあったりして、当時の団長エプロンの表情は曇り始めます。 「高校、大学の部を聴いた感じでは、会場はあまり響かない所なので、思いっきり声をハリアゲた方が有利ないかな」というアドバイスをT合唱団のT氏よりいただき、「コレハ、ウタオニ有利ダ!」と勝手に解釈します。何しろ、中部で金賞を取って、全国大会でイブシ銀賞を取るつもりでいましたから。 リハーサル室は、残響2秒はあると思われる大浴場ならぬ大会議室。ブルックナーの最初のハーモニーが本当に美しく響いてくれます。コダーイは、とても明るい音に変身しました。「これで、いけるぞー」と、皆信じていました。この時は・・・・・・・ ところが出番を待つ間に、エプロンは極度の緊張から顔面ソー白となり、マロのマッサージを受けています。さらに悪いことには、ベースの大黒柱タローちゃんが急に鼻水が出始めて、止まらなくなってしまいました。でも、本番に強い「うたおに」です。ステージに立つと気分も引き締まります。 そしてブルックナーの美しいハーモニーが・・・・ アレ! 全然響かん。周りの音が全く聞こえん。エライコッチャと言っているうちに終わってしまいました。コダーイで一発逆転をかけるしかありません。 「ヨーニナーダカーキオンガクカ」という2小節の間にもピッチは下がり始めました。今までに一度もなかったことで、聴いたこともないようなクラスターがあちことで発生します。もうヨボルしかありません。頼みのタローちゃんは両鼻にチリ紙を押し込み、とっくにリタイアしています。もう何をやっているのか皆目わかりません。 気がつくと曲は終わっていましたが、体のアチコチが硬直して、ヨロケながらの退場です。ノドの痛みがヒドくて、誰も口を開こうとしません。「あれは本当に歌の鬼だね」という声が会場で聴かれたそうです。きっと皆マッ赤な顔で歌っていたのでしょう。 ボーッとする中、「ユーリョーショー」という声をきいたような気がします。そうです、金、銀、銅でなくて優良賞なのです。とても寂しい気持ちで引き上げる団員に、銀賞を受賞した四日市南高校の生徒諸君が「うたおにー、ガンバレヨー」と声をかけてくれました。当時、高2だった河地君も、その中にいたのでしょうか。 審査員の一人、関屋晋氏は「私はいいと思いました。でもコダーイにはもっといい曲があります」とコメントされたそうです。 年が明けて出たハーモニーの中部の評はといいますと・・・・・・アレッ!・・・・・・・全部門を通じて21団体参加したのですが、20団体についてはホメるもケナすも、きちんとしたコメントがあるのに、1団体だけ「う」の字も印刷されていません。無視されてしまったのです。講評者はイソベマキじゃなくてイソベトシ。ハルカナトモニの作者だそうです。「うたおに」が「夜のうた」を愛唱歌としたいきさつがここにあるのです。 てなわけで、「うたおには」翌年福井で「マトラの風景」を一発決めて銀賞を取るまで、悶々とした1年をマジャール語とともにおくるのでありました。 |
1988年7月25日発行 「おにっ子通信」第20号(当時の団報)より抜粋 |
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